【画像】黒柳徹子の若い頃が超美人!元NHK人気女優でニューヨークにも留学!

今や日本国民のお茶の間に欠かせない「徹子の部屋」で知られる黒柳徹子さん。

そんな黒柳徹子さんの若い頃ってどんな感じだったんだろう?ってふと思いませんか?

そこれ、今回は黒柳徹子さんの昔の若い頃をまとめてみました。

目次

黒柳徹子のプロフィール

本名:黒柳徹子 (くろやなぎてつこ)
生年月日: 1933年8月9日(2021年現在88歳)
血液型:A型
出身地:東京都港区乃木坂
職業:女優、タレント、声優、司会者、エッセイスト

黒柳徹子さんと言えば『徹子の部屋』のイメージ、いやむしろそれしかない人も多いのではないでしょうか(笑)

しかし、黒柳徹子さんの凄いところ、それは1953年に、NHKがテレビ放送を開始した日から、今日(2021年現在)に至るまで、ずっとテレビの世界で生きている。

いわば、テレビ史の誕生から今までを知る、テレビ界のいわば「生きる伝説」ともいえるところ。

それが黒柳徹子さんが凄いと言われる所以でもあります。

【画像】黒柳徹子の若い頃(昔)が超美人!

こちらが黒柳徹子さんの若い頃の昔の写真です。

「オードリー・ヘップバーン似」でめちゃくちゃ美人ですよね!

今の面影からも少し感じられますが、目や鼻がはっきりしていかにも美形って感じですよね。

髪型などもよく変えたり、若い頃は色んな雰囲気を持っていたことがわかります。

個人的には自身のインスタグラムに投稿されたこの時の写真が一番美人ですね!

「小悪魔的」な美貌が魅力的ですよね。

【画像】黒柳徹子の若い頃(昔)を時系列で紹介①生い立ち

音楽家の父とエッセイストの母の間に生まれる

1933年に東京府東京市赤坂区(現・東京都港区)乃木坂で生まれた黒柳徹子さん。

父は有名な音楽家で母はエッセイストという芸術一家で生まれましたが、両親はてっきり男の子だと思い『徹』と名前を決めていたところ、女の子と分かりやむをえず『徹子』にしたそう。

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父の黒柳守綱さんはヴァイオリニストとして知られており、NHK交響楽団のコンサートマスターも務めたほどの実力派で、実は黒柳徹子さんはかなりの音楽家の血筋を引いた子供だったんですね。

「問題児」とみなされトモエ学園に転校

尋常小学校という今でいう公立の小学校に入学した黒柳徹子さん。

しかし、好奇心旺盛すぎて授業中に机のフタの開閉を100回ぐらい繰り返したり、教室の窓から大声でチンドン屋を呼んだりしたため、「問題児」とみなされ1年で退学となってしまいました。

今でいうところの、発達障害のようなふしが見られる黒柳徹子さん。

当時はそういったものには理解の薄い時代であり、単に「おかしな子」というだけのレッテルを貼られてしまった黒柳徹子さん。

しかし、そんな黒柳徹子さんは東京の自由ヶ丘にある「トモエ学園」に転校。

トモエ学園は子ども自身がもともと持っている個性や、興味・関心などを大切にしようという「オルタナティブ教育」という当時は非常に珍しい「自主」を尊重する方針の学校でした。

廃車になった電車車両を教室として使用していたり、自分の好きな教科から勉強ができたり、10人以下の少人数で授業が受けれたりとユニークな教育も行われていました。

黒柳徹子さんにとって「短所」が「個性」と見てくれるこの教育環境は黒柳徹子さんの人生において大きな転機だったことは間違いないでしょう。

黒柳徹子さんが未来にはばたく感性を大事に育ててもらったきっかけにもなった『トモエ学園』は黒柳徹子さんの世界的大ベストセラーにもなった自伝『窓際のトットちゃん』の話の中心にもなっています。

香蘭女学校

終戦を迎えた1946年に黒柳徹子さんは東京の品川区にある『香蘭女学校』という中高一貫のお嬢様学校に入学します。

この香蘭女学校は開校当時は敷地内には病院、孤児院、養老院などがありました。

ユニセフ親善大使として途上国を訪ねるなど”慈善活動”に勤しむ黒柳徹子さんの原点もこの学校にあったのかもしれませんね。

東洋音楽学校(現:東京音楽大学)声楽科卒業

大学は日本の私立音楽大学として最古の歴史を持ち、母親も通っていた東洋音楽学校(現:東京音楽大学)声楽科に入学。

父親もバイオリニストで母親も東京音楽大学出身ということもありましたが、音楽の道は親に強制されたことはなかったそう。

黒柳徹子さん自身もは音楽大学に進むことを考えていなかったそう。

しかし、やはり少なからず両親の影響を受けていたのでしょう。オペラの「トスカ」に憧れてオペラ歌手を目指すために音大に入学。

しかし、音大生時代の成績表も悪かったり歌詞が覚えられなかったそうで、オペラ歌手の道は断念します。

【画像】黒柳徹子の若い頃(昔)を時系列で紹介②NHK女優時代

NHK放送劇団に応募

オペラ歌手の夢を断念した黒柳徹子さん。

大学4年生の就職活動でどうしようか考えていたところ、「自分の子供に上手に絵本や人間劇ができるお母さんになりたい」そう考えました。

どこかでそういうところを教えてくれるところがないか母親に聞いたところか「新聞に出てるんじゃないの?」と教えてくれたそう。

早速新聞を見た黒柳徹子さんは「NHK」がテレビ放送開始にあたって「NHK放送劇団の女優」を募集していたのを見つけます。

実は、そのNHKの募集は1日しか掲載しなかったということで、まさに運も味方にした黒柳徹子さん。

「1からプロの女優に育成するため素人でもOK」ということで早速応募します。

この当時のオーディションの内容は上の黒柳徹子さんのチャンネルで語られています↑

最終面接では「親に言ったらこんなみっともない仕事を(するのはやめろと言われた)…」「こういう世界は騙す人が多いから気をつけろという話を聞く」などと言っていたのですが、見事に採用。

審査は6次審査まであり、6000人の中から13人が劇団員として選ばれました。

合格し晴れてNHKの専属女優に

1953年にNHKが初めて募集したテレビ女優の第一号としてデビューした黒柳徹子さん。テレビ女優としてデビューした『夢であいましょう』や『若い季節』など数々の人気番組に出演し、テレビの第一線で活躍を続けてきました。↑当時25歳黒柳徹子さん。

しかし、女優になったばかりのころの新人時代は目立ち過ぎだと注意され、もう帰っていいと収録中に降板させられ悩む毎日だったといいます。

しかし1954年放送開始のNHKラジオ「ヤン坊ニン坊トン坊」で自身初の主演となったトン坊役で人気に火がつきます。

その演出家に「あなたのその個性が欲しいから、直してはいけません」とアドバイスを受け、自身の個性を徐々に発揮するようになり、一躍にお茶の間の人気者になっていきました。

その後、1961年には第1回日本放送作家協会賞・女性演技者賞を受賞するなど、人気女優として着実にその知名度を上げていきます。

しかし、20代後半にはテレビとラジオのレギュラーが週に10本を数え、平均睡眠時間3時間という日が続いて、過労からすべてのレギュラー番組を降板し1か月の入院するほどの激務だったそう。

『NHK紅白歌合戦』の紅組司会

1958年の28歳の時には自身初となるNHK紅白歌合戦の紅組司会を務めました。

紅白歌合戦は女優の黒柳徹子さんにとって初めての「女優以外の仕事」でもあり、この紅白で司会者として大きな自信をつけたことでしょう。

また、当時はそこまで紅白にブランドがなかったため、出演者が遅刻するなどの苦労もあったようです。

【画像】黒柳徹子の若い頃(昔)を時系列で紹介③ニューヨーク留学

演技力を磨くためにアメリカの学校に

当時38歳の黒柳徹子さんは本格的に演劇を学ぶためにアメリカのニューヨークに留学。

当時の心境についてこのように語っています。

ラジオやテレビでご一緒する俳優の先輩たちは、皆さん、ものすごく上手なの。私たちは、テレビなのでなるたけ自然な演技でいいと言われてはいたものの、ずっと芝居をやっている俳優の方たちは、存在感が違う。どうしてこんなに上手なんだろうと考えると、どうも皆さん、舞台の経験があるってことがわかったんです。だから私もいつか、劇団に入るかして勉強しなきゃダメだろうと思っていました。

黒柳徹子が今、振り返る38歳からのニューヨーク留学より引用

もともと素人として一からNHKの女優になった黒柳徹子さん。

運やルックスや個性といったものが功を奏して女優になりましたが、いざ女優になってみると、やはり自分には「演技力」が足りないことを痛感したようです。

ニューヨーク時代は、アパートでの一人暮らしをし「メリー・ターサイ演劇学校」「ルイジ・ダンススクール」で、演技やダンスを勉強しました。

人生であのときほど、いろんなことを学んだ時期はなかったように思います。まずは英語もそうだし、演劇学校ではウソのない台詞回しを。芝居のテクニックだけじゃなく、人間の生き方についても学びました。

黒柳徹子が今、振り返る38歳からのニューヨーク留学より引用

しかし、テレビ朝日の新しく始まるニュースショーの司会者の仕事をもらったため、本当はもっといたかったそうですが1年でこの留学は終了し日本に帰国しました。

トレードマークの『玉ねぎヘア』に出会う

また、実は黒柳徹子さんのトレードマークである「玉ねぎヘア」が生まれたのも実はこのアメリカ留学の頃。

この留学中にお店でヘアードレッサーの須賀勇介さんという男性と出会います。

「ハミルカット」という全世界で流行するヘアースタイルを考案した須賀勇介さんの元にはハリウッドスターも通うほどでオードリー・ヘップバーンさんのヘアも担当していたそう。

そんな須賀勇介さんの腕前に惚れ込んだ黒柳徹子さんは「洋服でも和服でも似合う髪型」を一緒に考え、この「玉ねぎヘア」が考案されたそう。

残念ながら、須賀勇介さんは1990年9月14日に48歳で若くしてこの世を去りましたが、須賀勇介さんの魂は黒柳徹子さんの玉ねぎヘアと共に今も生き続けていることでしょう。

【画像】黒柳徹子の若い頃(昔)を時系列で紹介④『徹子の部屋』開始当時

43歳で『徹子の部屋』が始まる

1976年の43歳の時には皆さんもご存知の”日本初のトーク番組”と言われる「徹子の部屋」が開始。

この時にはまさか40年以上続くモンスター番組になるとは本人も夢にも思わなかったでしょうね。

記念すべき1回目は俳優の故・森繁久彌さん。

意外なことに玉ねぎヘアは若い時よりも歳を取ってからの方が似合っていますね。

『徹子の部屋』開始以降は「司会者」として花開く

また、40代の『徹子の部屋』以降は「司会者」として活躍することが増えました。

女優→司会者とステップアップするごとに黒柳徹子さんの個性や魅力もどんどん世間に知られていくことになりました。

上の写真は40代半ば頃の司会を務めていた音楽番組「ザ・ベストテン」のでも着た衣装のショット。

黒柳徹子さんは若い頃も綺麗ですが歳を取ってもまた違う大人の綺麗さがどんどん増してますよね。

黒柳徹子の若い頃(昔)のまとめ

若い頃から人と違う人生を歩んできた黒柳徹子さん。

しかし、その人とは違うことを見事に「個性」へ成功する黒柳徹子さんのその生き方は、世間の人々に人それぞれ「適材適所」があることを教えてくれるメッセージ。そう思わせてくれますね。

これからも徹子の部屋で元気な姿を見せてもらいたいですね。

 

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