テレビでよく見かけるデヴィ夫人。
そんなデヴィ夫人を見て、ふと若い頃って一体どんな感じだったんだろう?そもそも何者?そんな疑問を抱いてしまったのではないでしょうか。
今回は、そんなデヴィ夫人の若い頃をエピソードを交えながらご紹介したいと思います。
デヴィ夫人のプロフィール
本名:ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ
日本名:根本 七保子(ねもと なおこ)
生年月日: 1940年2月6日(2021年現在81歳)
血液型:A型
出身地:東京都港区西麻布
職業:タレント
「デヴィ夫人って一体何者?」テレビなんかで見ていてもそんな疑問を多くの人は持つことでしょう。
セレブなのは分かるけど、その若い頃を知らないためになんとなくお金持ちのイメージしかないですが、実はデヴィ夫人はインドネシア初代大統領であるスカルノの第3夫人でした。
そのため、外国名も持つようになり、それが元で「デヴィ夫人」と呼ばれようになりました。
【写真】デヴィ夫人の若い頃(昔)が超美人!
「東洋の真珠」として世界中の貴族やセレブ有名人から注目を浴びる
こちらがデヴィ夫人の若い頃の写真。
め….めちゃくちゃ美人ですね!
まさに「日本人離れ」という言葉がぴったりなほどのその美貌。
若い頃は「東洋の真珠」として、世界中の各国の貴族やセレブ有名人から注目を浴びたようです。
和服姿もめちゃくちゃ似合いますね!
まさに、日本が世界に誇れる「大和撫子」ではないでしょうか。
ハーフでもクォーターでもない純血日本人
ここまで見ると、「ハーフなの?」という純粋な疑問が浮かぶことでしょう。
しかし、デヴィ夫人は純血の「日本人」であることが分かっています。
<わかる範囲でのデヴィ夫人の先祖>
父:根本兵七(大工の棟梁)
母の旧姓名:笠原まさ
父方の曽祖父:根本兵吉 (茨城・平磯でカツオ漁師)
父方の祖父 :根本兵三郎(海産物店経営)
母方の祖父:笠原房治(千葉・睦沢で大農家)
このように、親族も全て海外の混血がない日本人家系であることから、彼女はハーフやクォーターではなく、純血の日本人のようです。
【写真】デヴィ夫人の若い頃(昔)①生い立ち
日本人の両親のもとで誕生
デヴィ夫人は1940年に日本人の父親の根本兵七さんと母親の七保子さんの元で生まれ、弟との4人家族でした。
両親、特に父親の兵七さんのお顔を見ればデヴィ夫人のハーフ顔の理由が納得でしょう。そして母親のまささんは近所でも評判の美人だったそうです。
デヴィ夫人の美貌は「整形」でもなければ、その秘訣はハーフ顔の父親と美女の日本人母の両親にあったことでしょう。
戦争を経験し貧しい生活を送る
東京・麻布という都会の街で生まれ育ったデヴィ夫人ですが、体を壊した父に代わってデヴィ夫人の母は内職で生計を立てており、家は貧しく小さな借家で暮らしでした。
デヴィ夫人のハングリー精神の「原点」はこの幼少期に体験した戦争からの”ひもじさ”や”苦労”にありました。
父だけを残して弟と母親と3人で福島県に疎開した経験もあり、当時戦争末期だった時代には食べるものがなく、「生えている草をお雑炊の具にした」ほど常に空腹との戦いだった経験。
そして、そして病気の父に代わり働く母親も足の思い障害を負っており満足に働くことのできないこと。そんな体験から「母と弟を守るのは自分」だと、幼心に感じていたそうです。
【写真】デヴィ夫人の若い頃(昔)②女優を目指しながら家計を支える
父の死をきっかけに一家の大黒柱に
中学生の時、家から帰るとクラスの女子生徒のお母さんがいたそう。
障子を挟んで聞き耳を立てていると母学費を払えなくてそのお母さんからお金を借りていたことがわかります。 しかも借金が返せなくて催促されていました。
「母親をそんな目に合わせてまで進学しなくてもいいわ」
そう思ったデヴィ夫人は働きながら学校へ行って自分のしたいことをすると決意したそう。
そして、デヴィ夫人に更なる追い討ちをかけるように、17歳の時に父親がこの世を去ります。
17歳にして一家の大黒柱となったデヴィ夫人は「もっと働いて母を楽にしたい」そんな思いが強く芽生えていきました。
芸能プロに所属し「女優」を目指す
将来は女優を目指し、港区の高陵中学校に通っていた当時からその美貌を活かして”東芸プロダクション”の2期生として芸能事務所に所属していたデヴィ夫人。
1955年(昭和30年)、15歳の時、新東宝制作の映画『青ヶ島の子供たち 女教師の記録』(白黒映画)にエキストラ出演しています。
東芸プロ時代にはモデルも経験しています。
やはり、その美貌は地元でも評判だったのでしょうね。この美貌なら当時の街を歩けば色んなところからスカウトされたのではないでしょうか。
当時の大女優だった浅丘ルリ子さんとも交流があったようです。
寝る暇もなく働く日々
150倍の倍率で合格率1%未満だったといわれていた千代田生命(現在のジブラルタ生命)に入社し。
昼休みは喫茶店でアルバイト、夜は都立三田高校の定時制へ通い、女優も目指すという、一日が30時間くらいに感じられる密度の濃い生活を送っていました。
そして、この頃の経験があったからこそ、どんなことにも耐えることができたというデヴィ夫人。やはり逆境は人を強くするのでしょうね。
私は人の3倍勉強して、人の3倍働いて、人の3倍努力して、人の3分の1の睡眠でやってきました。今でもそうです。私が自分をラッキーだと思うのは、幼いころに体験した戦争と貧しさが、どんな逆境でも生き抜く力を与えてくれたこと。
【写真】デヴィ夫人の若い頃(昔)③高級ナイトクラブ勤務→インドネシア大統領夫人へ
夜の世界へ入る
また、この17歳の頃に国際クラブという洋館に出入りしていたというデヴィ夫人。
そこでフィリピン人歌手のチキータさんという女性と仲良くなり、チキータさんの紹介でナイトクラブでアルバイトを始め、そこでアメリカ人宝石商のジェイムズ・ベイカーさんと知り合います。
お金持ちのベイカーさんに色々なところに連れて行ってもらうようになったデヴィ夫人。
赤坂の高級ナイトクラブ「コパカバーナ」で働く
そして、ベイカーさんに連れられ赤坂の高級ナイトクラブ「コパカバーナ」に出入りするようになるデヴィ夫人。
オーナーだった長尾久子さんに気に入られ、当時19歳の時に「コパカバーナ」で働き始めることになります。
このナイトクラブは当時の大卒の初任給が1万円といわれていた時代に、なんと水割り一杯が1万円、テーブルチャージ料が10万円というまさに規格外の料金だったようです。
ここには各国のVIP・政治家・財界人・プロレスラー・各界のトップスター(芸能人・スポーツ界他)・闇社会の人間などが出入りしていたとか・・
また、コパカバーナは1957年にオープンしたお店で当時の客の90%以上が外国人。
デヴィ夫人は小さいころから見て育っち、見ず知らずの外国のペンパルと手紙の交換をするぐらい、英語を猛勉強いたというデヴィ夫人で英語の成績はいつも一番だったそう。
デヴィ夫人の成り上がりのキーワードにこの「英語力」が挙げられ、美貌だけでなく涙ぐましい努力もあったようです。
インドネシア大統領との出会いそして結婚
デヴィ夫人の高級ナイトクラブ「コパカバーナ」で働き出したこと。
これは、金銭面での充実だけでなくデヴィ夫人の今後の人生を左右するある一人の男性との「出会い」をももたらしました。
1959年(昭和34年)19歳のときに、当時のお客さんとして付き合いのあったある東日貿易の社長久保正雄さなか一人の男性を紹介されます。
それが当時のインドネシア初代大統領のスカルノです。
一国のVIPに見初められたデヴィ夫人。
出会ってから2週間後にインドネシアに渡り、スカルノ大統領の生活するインドネシアに移住。
そして、1962年の22歳の頃にスカルノ大統領と正式に結婚し4人の夫人のうちの第三夫人になります。
まさに「シンデレラストーリー」と言っても過言ではないデヴィ夫人の人生ですが、その裏では壮絶な不幸にも襲われています。
相次ぐ身内の死
「日本人が大統領に嫁ぐ」
そんな前代未聞の出来事にマスコミは騒ぎ立てました。
マスコミはデヴィ夫人のことを「日本を捨てた売春婦」と誹謗中傷。
そんなマスコミの執拗な取材により体調を崩していた母親が他界。
そして、その2日後にセールスマンに全財産を騙し取られた上に母親の死に目にも逢えなかった
弟の八曾男さんが自宅アパートでガス自殺。後追いのような形だったのでしょう。
デヴィ夫人は22歳にして天涯孤独の身となってしまいました。
母と弟を亡くした事は本当に無念だったし、弟を自殺からなんとかして救えなかったか、それは本当に私が一生十字架を背負うくらい苦しんだ事ですね。
デヴィ夫人はこう語っており、その栄光の代償はあまりにも大きく今でも「一生十字架を背負う」と言うほど苦しみに縛られてきた人生だったようです。
インドネシア大統領との間に第一子を出産
1967年(昭和42年)3月11日。デヴィ夫人が27歳の時に都内病院にて娘のカリナを出産。
正式名は「Kartika Sari Dewi Soekarno. Kartika Sari」。スカルノ大統領の8番目の子供でした。
【写真】デヴィ夫人の若い頃(昔)④亡命時代
スカルノ大統領が失脚そして亡命
しかし、栄華を極めたかに思えたデヴィ夫人の大統領夫人の生活は一変。
結婚から3年後の1965年9月30日、武力で政権を奪い返すクーデターが起こり、スカルノ大統領は失脚し、全ての役職をはく奪され自宅に事実上の軟禁状態になります。
大統領夫人という立場のデヴィ夫人も同じく軟禁状態に。
デヴィ夫人はインドネシアの日本大使館に亡命を希望しましたが、一度国籍を離脱していたことや国際的立場上の理由で日本への亡命は断念し、フランスに亡命。
その後、家族が国外に政治亡命し離散。
再開を誓いましたが、スカルノ大統領は5年後の1970年6月21日にジャカルタで死去。デヴィ夫人とスカルノ大統領は再開することなく、この時が最後の別れとなってしまいました。
亡命先フランスで社交界デビュー
1970年の30歳の時にフランス・パリに亡命したデヴィ夫人。毎週末はパーティに出席し、各界著名人と交流し、一人だけ東洋人の中でもその美貌や流暢な英語から多くの男性を虜にし「社交界の華」「東洋の真珠」と呼ばれていたそう。また、ロスチャイルド家や元ビートルズのリンゴ・スターや芸術家のサルバドール・ダリ、旧ソ連のゴルバチョフ書記長などとも交流があったそうで
「パリに行ったときは、フランスの社交界で必要な名声、地位、財力、個性のすべてを兼ね備えていたので、私は水を得た魚のようでした」
当時の様子をこのように本人も語るように、まさに「この世の春」を謳歌していたことでしょう。
しかし、一時はフランスの貴族、エルゼアル・ド・サブラン=ポントヴェスと交際していたようで一時は婚約までしましたが白人ではないことが主な理由で結局、結婚には至らず7年でその恋は終わっています。
アランドロンとも噂に?
実は、フランスの映画俳優、アラン・ドロンとも友人だったというデヴィ夫人。スカルノ大統領が失脚する一年前、夫婦で
1964年の東京五輪のために来日した際に、日本に帝国ホテルを出入りするときいつも同じホテルに宿泊していたアランドロンさんがロビーにいたそう。
それを見たスカルノ大統領が「あいつ何でいつもここ(ロビー)にいるんだ(お前目当てじゃないか?)」と嫉妬するような一面があったようです。
そして、その後にパリに亡命した際にアランドロンと再開したデヴィ夫人。
「元カレってことなんですか?」と尋ねると、「40年前の昔々のお話。カレというほどではないですけど。うたかたの恋ですね」と切り出した。
こう語るように亡命中にちょっとした関係があったのかもしれませんね。
しかし、スカルノ大統領と別離後は、再婚することなく、現在に至っています。
スカルノ大統領の遺産を相続
ちなみにデヴィ夫人が、スカルノ大統領から相続した遺産は、日本円にして20億円と言われています。その遺産で1980年には情勢が安定したインドネシアに戻り石油事業を展開しています。
アメリカおよびヨーロッパのエンジニアリング会社との開発事業に乗り出し、それが見事成功。
その後は、アメリカ・ニューヨークに移住し不動産などの運営などでも巨額の富を手にしたと言われています。
デヴィ夫人の若い頃からの成り上がりの秘密は「内面の美しさ」にある
デヴィ夫人は若い頃についてこう語ります。
私自身がラッキーだと思うのは、戦争と貧しさの経験があることだけです。貧しさこそ、神から与えられたギフトですから。
戦争という一見不運に見えるようなことでもそれを「ラッキー」とまで言ってのけてしまうそのポジティブな生き方。
デヴィ夫人の華やかな目に見える表向きの面だけを見ると誤解してしまいがちですが、
デヴィ夫人は決して外面的な美貌だけで成功したのではなく、「内面的な美しさ」こそがデヴィ夫人の成り上がりの秘密であり、多くの人が見習うべきところでしょうね。
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