超人気女優として長年活躍する天海祐希さん。
そんな天海祐希さんといえば「元宝塚」としても有名ですが、宝塚時代は数々の伝説を残し、今もファンの間では語り継がれているようです。
今回は、そんな天海祐希さんの宝塚時代について詳しくご紹介したいと思います!
天海祐希の宝塚時代が超イケメン!
こちらが天海祐希さんの宝塚歌劇団時代の写真。
い、、イケメンすぎる。
男よりもハンサムな天海祐希さんは月組のトップスターとして活躍しました。
【1987年】73期生として宝塚歌劇団に入団
天海祐希さんは1987年に73期生として宝塚歌劇団に入団。
こちらがその入学式の時の天海祐希さんですが、この時からかなりそのオーラを感じます。
今ではかなりキリッとした顔の天海祐希さんですが、入学当初は顔が少しふっくらとしており、今よりも女性らしさを感じるルックスですね。
天海祐希さんの同期は42人おり、匠ひびきさん、姿月あさとさん、絵麻緒ゆうさんなどがいます。
宝塚歌劇団を志したきっかけをは中学で演劇部に入り2年生の時に宝塚ファンの担任に勧めらたのがきっかけだったそう。
また、きっかけの詳細を以下のように語っています↓
(宝塚には)中学の先生に勧められて。そうか、宝塚に行ったら踊りも全部教えてもらえるんだ。『ウエスト・サイド物語』を見て、トニーの役をやってマリアの歌を歌いたいと思っていたんです。あまりにもリチャード・ベイマーさんの歌う♪マリア~、って顔が素晴らしく素敵で、こんなふうに歌えたらどんなに素敵かって
「天海祐希」は宝塚時代の芸名だった!
この「天海祐希」というのは芸名で本名は中野祐里(なかの ゆり)さんと言います。
実は、宝塚音楽学校では2年の夏休みに「芸名」を考えなければいけません。
そんなルールがあるのですが、その芸名の由来は以下のように語っています↓
父親と相談し、漢字4文字、本名から一字と希望から「希」を使用、強運との姓名判断で言われている本名と同じ字画数の3つの条件から「天海祐希」「木条祐希」の2つの候補に絞られ、男役らしい「木条祐希」を選ぼうとしたが、副校長の「スケールが大きい」との助言で現在の「天海祐希」にした
天海祐希は宝塚時代の伝説を時系列で総まとめ!
伝説①音楽学校に首席で入学し卒業
天海祐希さんは宝塚音楽学校を「主席で入学し主席で卒業」するという超エリート中のエリートでした。
また、入試のエピソードとしてこんな武勇伝もあるようです↓
面接のときに『今年落ちたらどうしますか?』って言われたんですね。『今年1回だけ』っていう約束で両親に宝塚受検を許してもらったので、『今年落ちたら二度と来ません』って言ったんですよ」と入学試験での自身の発言を振り返った。
まさに、入学前から相手に媚びずに自分を貫く姿勢に面接官もスター性を感じたことでしょうね。
伝説②演出家から感謝される
宝塚音楽学校に首席で入学した天海祐希さんですが、入学試験に立ち会った植田紳爾氏がその第一印象の華やかさに「お母さん、よくぞ産んでくださった」と心の中で驚き感謝したそう。
植田紳爾氏いわく、音楽学校受験の際、受験者全員、黒髪にすっぴんに黒のレオタードと同じ格好をしている中で彼女は輝いて見えたと言います。
植田紳爾氏に「歴史に残る大物。全てを備えた大型スター」 と絶賛されていた天海祐希さん。
宝塚音楽学校入学時から他の生徒とは一線を画す、まさに『宝塚のために生まれてきた』と言っても過言ではない存在だったのです。
伝説③入団10ヶ月での新人公演の主役に大抜擢
天海祐希さんは宝塚歌劇団に入団10ヶ月で新人公演に初主演に大抜擢されます。新人公演とは入団してから1年目から7年目までの新人だけで演じる公演のことで
本公演と同じ作品を上演するいわば次世代の若手を観客に見せる公演でもあります。
本来であれば新人公演最後の年である7年目近くで「主演」を務める場合が多く、、先輩ごぼう抜きで1年目に新人公演の主役獲得するというというのは異例の出来事でした。
そして、この入団10ヶ月で新人公演の男役での主役は史上最年少でもありました。
入団10ヶ月にして早くも新人公演の主役に選ばれた天海祐希さんに上級生たちが「あの子は誰だ?」と騒然となったそう。
また、1987年に新人公演で主演した後も、4年目までの間に6度も新人公演で主演しています。
多くのファンの印象に残っている舞台といえば1991年、月組公演『ベルサイユのばら〜オスカル編〜』でしょう。
この公演で当時24歳だった天海祐希さんは、当時月組のトップスターだった涼風真世さん演じるオスカル役のパートナーアンドレ役を演じています。
この公演は涼風真世さんのトップお披露目公演。
そんなオスカル役の涼風真世さんを一目見ようと押し寄せた観客に対して、入団5年目ながら月組2番手男役スターに抜擢された天海祐希さんにも観客は大注目でした。
伝説④初舞台から7年で月組トップスターに就任
天海祐希さんは1993年に入団7年目で、天海祐希さんは月組のトップスターになりました
通常、トップスターへの就任は入団10年目以降から15年目あたりであることが一般的。
本来であれば新人公演最後の年である7年目近くで「主演」を務める場合が多い宝塚ジェンヌの世界。
その7年目に新人公演の主演どころかトップスターに就任してしまうというのは、それだけで奇跡的と言えますね。
天海祐希さん以降、入団10年以内でトップスターになった人はいません。
それぐらい、天海祐希さんの登場はファンのみならず宝塚歌劇団の歴史に名を残した快挙だったようですね。
伝説⑤学校のルールを変える
天海祐希さんの代から髪がハネないよう何十本ものヘアピンで留める「予科ピン」を廃止させました。
これは、天海祐希さんだけの行動ではないのですが、宝塚同期の仲間たちと、後輩を指導するための指導要綱を作成していた天海祐希さん。
そのときに、(予科ピンは)あまりにも外を歩くのが恥ずかしかったから『ここまでしなくていいんじゃないか』という理由で廃止させたそうです。
伝説⑥ファンに対して媚びない
お茶会でファンに注意
これは、天海祐希さんのファンとの「お茶会」での出来事。
その圧倒的な人気からイベント会場内はファンでごった返してたそう。
そして、イベントの司会や進行の段取りが悪いため、天海祐希はそのイベント中ずっとイライラしているご様子で、ついにはしびれを切らして自分で進行を仕切る場面も。
そんな時、写真撮影タイムがあったのですが、だらだらと動くファンに対して『テキパキ動きなさい、さっさと終わらせればその分たくさんお話できるんだから』と容赦なく厳しい口調でファンに注意。
その竹を割ったようなさっぱりとしたイケメンな性格もまた多くのファンを魅了したことでしょうね。
舞台の稽古の22時以降の出待ちを禁止
天海祐希さんはファンに対して「午後10時以降の出待ちを禁止」というルールを決めました。当時は稽古終了が10時以降になることが多く、そんな時間までファンが待っていると思うと自身が集中できなかったこと。そして夜遅くに女性が外をウロチョロしているのは危険ということから独自ルールを設けたようです。
ファンに対してこのようなルールを設けること、そして、それがファンのみを案じた男前な行動だったことがファンの心を掴み今でも伝説となっています。
伝説⑦トップ就任後、わずか2年で退団
天海祐希さんが宝塚の『伝説』と言われるその最大の理由は「太く短い活躍」にあります。
天海祐希さんは人気絶頂だった1995年の28歳の時に引退を発表。
わずか8年と宝塚トップに就任するのも早かったが、宝塚を退団するのも早かった天海祐希さんの劇団人生。
その突然現れ風のように去っていったその在籍期間の短さもファンの間で伝説として語り継がれる大きな要因でもあります。
引退時にはスポーツ新聞の1面を飾りましたが、宝塚ジェンヌが新聞の1面に出るなんて、後にも先にも天海祐希さんさんだけでいかにその注目度が高かったかが伺えます。
伝説⑧サヨナラ公演での立ち振る舞い
フィナーレで羽根を背負わなかった!
宝塚の象徴ともいえるラストのフィナーレでトップのスターが大階段を降りてくる大きな羽。
天海祐希さんはこの大きな羽が嫌いということで退団公演ではその羽を背負わずに降りてきてしまいました。
自分の引退公演だから派手にしたいというそんな気は一切なく、そんな型破りな姿も伝説として語り継がれています。
客席より仲間に手を振っていた!
宝塚ジェンヌ達の行動基準は普通「ファン>一般客>仲間達>その他」といった感じでファンが第一というのが当たり前。
しかし、天海祐希さんの場合は「仲間達>ファン>一般客>その他」というような他のタカラジェンヌとは真逆の行動をすることでも有名でした。
そして、引退公演のフィナーレでも、幕が下りるまでの間、普通は客席に向かって手を振りますが、一緒に練習してきた仲間達に手を振っていたことが伝説になっています。
伝説⑨退団時にファンクラブの子全員に、ワイングラス贈呈
天海祐希さんは、退団時にファンクラブの人全員にワイングラス贈呈しました。
というのも、実は宝塚のファンクラブでもファンが自主的に作った暗黙の序列みたいなものが存在します。
幹部の人たちと、ファンクラブ入り立ての人では、受けられるサービスの度合いが違ってくるのが普通なののですが、天海は全員に全く同じワイングラスを贈ることでもファンの間では有名に。
「どんなファンにでも平等に接する」というその男前な対応も伝説として語り継がれています。
天海祐希の宝塚時代の相手役・麻乃佳世について
【1993年〜1995年】麻乃佳世
1993年に月組トップスターになった天海祐希さんですが、その月組のお相手は麻乃佳世(あさのかよ)さんでした。
麻乃佳世さんは天海祐希さんより1年遅い1988年に宝塚歌劇団に入団。
入団4年目の1991年に涼風真世さんのトップスター就任と同時に月組トップ娘役に就任しました。
その後は月組トップスターを引き継いだ天海祐希さんの相手役に就任し『ゆりよしコンビ』として注目を集めました。
その息のあった美男美女のコンビは宝塚歌劇団の歴史の中でも随一でしょう。
こちらは天海祐希さんと麻乃佳世さんとの共演の映像。
惚れ惚れするような演技姿ですね〜。
”添い遂げ退団”で話題に
また、お相手役の麻野佳世さん天海祐希さんはと同時退団でも話題になりました。
この同時に退団することはこの世界では”添い遂げ”と呼ばれ、宝塚では度々みられる光景ではあります。
長年連れ添った王子様と一緒に辞めるその姿は一種の美徳であり、夢の世界である宝塚歌劇らしい一幕でもありますね。
天海祐希はなぜ宝塚を辞めたのか?女優への転身理由は?
女優として活躍する天海祐希さんですが、28歳で突然引退を表明し話題にもなりました。
28歳での引退は予定通り?
まず、この引退の時期について
ずっと前から、この時期にと思っていた
このように、1995年5月30日に行われた退団発表の記者会見で語っており、トップスターとしての重圧といっうた精神的なものや体力的なものではなかったことが伺えます。
引退理由は?
そして、その引退理由は「他の場所で自分の実力を磨きたかったから」だと思います。
過去に2009年7月24日放送のA-studioに出演した際、天海祐希さんはこのようなことを語っています。
「今ここにいるのがアタシであってアタシじゃないっていう思いがすごくあった。こうやって今まわりの方にたくさん応援していただけて、言葉は悪いですけどチヤホヤさせてもらっているのが、これは実は私の力じゃないんだって」
実は、天海祐希さんは宝塚の入学当初から特別歌が上手かったわけでもなく、実力が歴代スターに比べ群を抜いていたわけではありません。
しかし、圧倒的な”華”があり宝塚のトップスターに上り詰めたわけですが、もっと他の場所で自分を試したい。そんな思いがあったのでしょうね。
天海祐希の宝塚時代のまとめ
瞬く間にトップスターの座に上り詰め、風のように去っていった天海祐希さんのタカラジェンヌ人生。
華々しくも一瞬で散ってしまうその桜のような儚い女優人生だったからこそ”伝説”として語り継がれるのでしょうね。
これからも女優としての活躍を期待しています!
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