【画像】雅子様の若い頃(昔)が綺麗すぎる!エリート外交官でバリキャリ女子だった!

令和の御代の皇后陛下になられた雅子さま。

テレビ越しからも伝わるほどその美貌と品格に溢れる女性として有名ですが雅子さまの昔について気になりますよね。

今回はそんな雅子さまの若い頃(昔)についてご紹介したいと思います。

目次

雅子さまの若い頃(昔)が綺麗すぎる!

名前(旧名):小和田 雅子(おわだ まさこ)

生年月日:1963年〈昭和38年〉12月9日(2022年1月現在58歳)

学歴:田園調布雙葉小学校〜田園調布雙葉中学校〜
ベルモントハイスクール(アメリカ)〜ハーバード大学経済学部〜東京大学法学部(学士編入)

こちらが雅子さまの若い頃の昔の写真です。

めちゃくちゃ美人ですね。なんていうか知性ってやっぱり外見からも滲み出るものなんですね〜。

雅子さまを見ると誰かに似てるとずっとモヤモヤしてましたが、やっと思い出しました。あの女優の松下由紀子に似てますよね〜。

雅子様は1963年12月9日外交官の父親・恆さんと優美子夫妻の間に双子の妹たちと3人姉妹の長女として東京都で生まれました。

わずか1歳8ヶ月で父親の赴任に伴いロシアのモスクワに移り住み、そこから5歳になるとニューヨークに移ります。

一時は帰国し東京で田園調布雙葉小学校・田園調布雙葉中学校に通い学生生活を送ることになりますが、高校1年生の夏にまたもや父の赴任に伴いアメリカへ戻ることになり、ここからはアメリカでの学生生活を送ることになります。

ハイスクールでも優秀な成績を修め、学業、リーダーシップ、奉仕精神などを総合して全米の優秀な学生を評価する「ナショナル・オナーソサエティ(全米優等生協会)」に選ばれるほどでした。

1981年、雅子さんはマサチューセッツ州立ベルモント・ハイスクールを卒業。

大学入試では、エール大学やプリンストン大学など、東部の名門大学に軒並み合格した雅子さま。

そのなかでも、名のある大学に進学した方が日本での就職に有利だと思ったこと、そして最も大きな理由は父の恆さんが客員教授を務めているということもあり、ハーバード大学を選びました。

雅子さまの若い頃(昔)を時系列でご紹介!

雅子さまの若い頃①ハーバード大学時代

ハーバード大学に入学した雅子さまですが、父親の恆さんが在ソ連日本国大使館公使を任命され、再びロシアへ渡るため、家族は雅子さまを残しロシアへ引っ越し。

そのため、雅子さまはハーバード大学で寮生活をすることになりました。

寮生活では、勉強の合間にジョギングをしたり、パーティでマイケル・ジャクソンやプリンスの曲でダンスを踊ったりして楽しまれたといいます

ハーバード大学での専攻は、数理経済学というコンピュータを駆使する難しいテクニックを必要とする学問を専攻されました。
卒業論文では『輸入価格ショックへの対外調整:日本の貿易における石油』という内容を執筆しました。

大学では毎日図書館で勉強をなさっていたそうで、常に辞書を手放さず、『辞書が恋人』とからかわれるほど肌身離さずお持ちだったほど勉強熱心な学生だったそう。

そして、成績は経済学部の中でも特に優秀だったそうで、優秀な人だけに与えられる学位も受賞されています。

指導教官のジェフリー・D・サックス教授は「経済学部の優秀な生徒でした」といいます。その言葉通り、雅子さんは卒業時には、成績上位15パーセントの者だけに与えられる栄誉学位「マグナ・クム・ラウデ」(ラテン語で「成績優秀者」の意)を授与されています。

雅子さまの「行き方」より引用

元々語学が堪能で幼少期からも海外で過ごすなど、高い国際感覚を持っていた雅子さま。そんなこともあり、「もともと国際的な仕事をしたい」そんな思いを持っていたそう。

そんな気持ちをより一層強くし、将来の方向性を決めるきっかけにもなったのが初めて外国の大学出身で女性外交官となった村角美絵(むらずみみえ)さんとの出会いでした。

村角さんからも『男女差別のない職場を選ぶなら、外務省がいいでしょう』というお話を聞き、父と同じように外交官の道を選ぶことにしました。

昭和60年(1985年)にハーバード大学を21歳で卒業した雅子さま。

当然のように、在米の証券会社や金融機関から就職の誘いがあったがあったり、卒業後は父の恆さんはに、「アメリカに残って法律の勉強をしたらどうか」とすすめられました。

しかし、雅子さまは「このままでは、根なし草になっちゃうわ」そう言って、日本に帰って父親と同じ外交官になる道を選びました。

そんな雅子さまの発言からも海外生活が長く、様々な国の人と接する機会が多かったからこそ、自分が日本人であることを強く意識し、日本のために働きたいという思いを抱いていたのでしょうね。

その後、外交官の勉強をするために日本に戻り、翌年4月に東京大学法学部第3類(政治コース)の3学年に外部学士入学します。

しかし、入学後その2カ月後には外交官試験を、晴れて合格してしまい外務省入省が決まったので単位を取らずに中退しています。

            ↑当時フライデーで掲載された「雅子さまと外交官試験で合格した3人の女性紹介記事」

ここまでサラリと書いてしまっていますが、東大の学士入学は、100人の受験者の中で合格できるのはたった3人。

そして、外交官試験の合格率は40倍。その年の難関を突破できたのはわずか28人で、女性は3人しかいなかったそうで、いかに雅子さまがすごいのかが分かりますね…汗

雅子さまの若い頃②外交官時代

ハーバード大学卒業、そして大学在学中に外務官の試験に1発合格した雅子さま。

昭和62年(1987年)4月、外務省に入省。当時は女性初のキャリア官僚スーパールーキーと話題になりました。

外交官試験の正式名は、「外務公務員採用一種(上級)試験」であり、いわゆる一種は「キャリア」と呼ばれる将来の幹部候補生として採用されるとして最難関試験です。

父娘の一種試験合格者は珍しく、「史上2組目の父娘2代の外交官誕生」として新聞各紙の夕刊の社会面に紹介記事が載ったほどでした。

また、学生時代は少しぽちゃっとしていた雅子さまでしたが、社会人になり外交官となってから急に大人びた風貌になり綺麗さもより一層磨きがかかってきましたね。

外務省のキャリアコースは入省後、担当部署に振り分けられ、補佐をしながら、担当地域について語学を含め2年間の国内研修をし、その後、英米の名門大学へ国費留学、帰国後、本格的に仕事(国内及び在外公館勤務)します。

仕事の方でも1週間の残業時間が50時間を超えることがあっても仕事の手を抜くことはなく、周囲では“スタミナは底知れない”と評判になるほどだったそう。

輝かしい経歴を誇示されることはなく、『午前2時に帰宅したら“今日は早いね”と母に笑われました』とユーモア交じりに語られていたそうです。

また、海部元首相や中曽根元首相をはじめとする多くの要人通訳も経験。要人の通訳は外務省のエリート中のエリートと言われており、いかに雅子さまが重要なポジションに就いていたのかが分かります。

記憶に新しい2019年に行われた新天皇が国内外に即位を宣言する「即位礼正殿の儀」は、160カ国以上の元首など外国人賓客600人ほどを招待する一大行事です。その間、さまざまな国際親善が繰り広げられます。

アメリカのトランプ大統領やフランスのマクロン大統領への素晴らしい接遇で、一躍注目を集めた雅子さま。その語学力と笑顔は、「さすが元外交官」と日本中を感嘆させました。

また、それだけでなく雅子さまのそのエリート中のエリートを走るキャリア面だけでなく、

外交官時代のファッションも注目され、その着回しセンスが抜群でマネをするOLの方が続出するほどの人気ぶりでした

特にスカーフの巻き方術がスゴイと雑誌でも取り上げられたほどです。

そんなファッションセンス抜群のキャリアウーマンだった雅子さまは多くの女性の憧れの的となりました。

雅子さまの若い頃③婚約発表

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こちらが婚約会見のときの映像。

「僕が一生全力でお守りします」

皇太子様は、1992年10月、新浜鴨場(千葉県市川市)で散歩中にこうプロポーズしたそう。

ドラマのようなセリフですが、そんなドラマチックなプロポーズもまた2人の純愛を感じるエピソードでもありますね。

初めての出会いは雅子さん22歳、浩宮さま26歳のとき。

雅子さまは皇太子様と数回いろいろなパーティでお目にかかることがあったそうで度々皇太子様からアプローチを受けていました。

しかし、雅子さまは皇太子妃候補としてあり続けるよりも、子供のころからの夢、外交官の道で精進することを伝えていたそう。

その度に天皇陛下はとてもガッカリして「僕はもう結婚できないかもしれない」と学友に弱音をはかれたそうで、それぐらい天皇陛下も雅子さまに惚れていたそうです。

そんな皇太子様の一途な恋はなんと6年も続いたそうで、こんなエピソードからも皇太子様の一途さ、そして雅子さまの素敵さが伺えますね。

しかし、そんな熱意が実り、平成5年(1993年)1月に無事、皇太子様からのプロポーズを承認した雅子さま。そのまま6年務めた外交官を退職することになりました。

雅子さまの若い頃からの活躍は今後の皇室と世界との繋がりに大いに活かされる

本来であれば、今頃は国益がむき出しで激突する外交の最前線に立つべきだった雅子さま。たしかに、そんな人がキャリアから退いてしまうのは非常にもったいないように思います。

しかし、その培ってきた外務省でののキャリアは、やめてそれで終わりではなく日本国の象徴として世界に誇る皇室と世界をつなぐ架け橋という雅子さまにしかできない大きな役割を担っていくことでしょう。

これからも一人の皇族として日本を支えていってほしいですね。

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