かつて“平成のシンデレラ”と呼ばれ、歌手としては大ヒット曲を連発し多くの社会現象も巻き起こした華原朋美さん。
最近になりまたテレビ出演し始め話題になっていますが、そんな昔の若い頃って一体どんな感じだったのか気になりますよね。
今回は、そんな華原朋美さんの昔の若い頃についてまとめてみました。
華原朋美のプロフィール
本名:下河原 朋美(しもがわらともみ)
生年月日:1974年8月17日
出身地 :千葉県浦安市
身長:156cm
血液型:O型
事務所:伝元
天才プロデューサーと言われた小室哲哉氏の寵愛を一身に受け、歌手デビュー。
ミリオンヒットを連発するなど、一躍トップアーティストに。その後は薬物依存の問題で復活と休養を繰り返すなど私生活でも何かと騒がせましたが、2021年には事務所を『伝元』に移籍。
心機一転再ブレイクが期待されます。
【画像】華原朋美の若い頃(昔)が超かわいい!
こちらが華原朋美さんの若い頃の写真。
めっちゃ可愛いですね!
「美女」という言葉がぴったりなその若い頃の華原朋美さん。
きっと多くの男性からモテモテだったことでしょうね!
【画像】華原朋美の若い頃(昔)①デビュー当時(グラビアアイドル時代)
芸能界入りは19歳
元々芸能界に興味があった華原朋美さん。
1990年の高校1年性の時に全日本国民的美少女コンテストに応募、しかし本戦出場に際し親の事前確認で反対され断念。
その後も度々スカウトから家に電話がかかってきたそうですが、高校3年生の時に吉野家で事務所『アバンギャルド』にスカウトされ芸能界入り。
当時の様子をこのように語る華原朋美さん。
『アイドルになってみないか』っていう風に言われまして、『えっ? 私がアイドル?』って。もともと性格的にすごい男っぽいところがあったので、『アイドル?』っていう風に言いました」
高校卒業後は美容師を目指し山野美容専門学校に入るも、芸能界入りを決意し退学しました。
19歳(1993年)三浦彩香時代
芸能界入りした華原朋美さんは当初は『三浦彩香』の芸名で活動。
雑誌『CanCam』、『ViVi』等でモデルを務めました。
雑誌「MABU」の巻頭グラビアを飾るなど、芸能界の当初は『グラビアモデル』として活躍していたようですね。
20歳(1994)~遠峯 ありさ
1994年4月には遠峯 ありさ(とおみね ありさ)の芸名に変更し活動。
この変更理由は「年齢詐称」です。
「歳をごまかしてクビになった」と言い、「4つぐらいサバ読んで、19くらいの時に15…。顔が幼いからそれでいいって言われて」
こう本人も語るように、色々大人の事情があったようですね(汗)
この当時は毎日のようにオーディションを受けていたといいます。
『とんねるずのみなさんのおかげです』のコント「近未来警察072」の女性隊員役のオーディションでは、松嶋菜々子さんとともに最終選考の2名まで残ったが、惜しくも身長の低さが理由で落選したそう。
歌手としてのイメージが強い華原朋美さんですが、当時はめちゃくちゃアイドルだったのに驚きですね。
深夜バラエティ『天使のU・B・U・G』で運命が激変
華原朋美さんの遠峯ありさ時代の最も大きな出演と言えば、1994年に放送された今田耕司と東野幸治が司会を務めた深夜番組『天使のU・B・U・G』。
この番組は一般的な知名度が低い女性アイドルたちが様々なゲーム企画などに挑戦するいわば芸能人の卵の発掘番組です。かなり際どい露出も多くキャピキャピした番組ですね(笑)
華原朋美さんはこのアイドルの中でもかなりいじられキャラで存在感を発揮していました。
当時の様子をこのように語る華原朋美さん。
遠峯時代は「アイドルという言葉は私に適してないと思い、下ネタとかも言っていた」と言い、「あの頃が一番楽しかった。イキイキしている本当の自分が出せていた時期」
こう語るように、華原朋美さんはもともとバラエティ向きのキャラクターなのでしょう(笑)
また、番組出演で心がけていたことをこのように語る華原朋美さん。
ほかのアイドルに負けないよう、“普通はアイドルがしないことをする”を心がけながら出演し、存在感を発揮。すると、その印象が強くなって、どんどんオーディションに受かるようになった
そして、この『天使のU・B・U・G』での出演が華原朋美さんの今後の人生を大きく変えることになっていきます。
【画像】華原朋美の若い頃(昔)②全盛期(小室プロデュース時代)
「恋人」である「小室哲哉」が全面プロデュースし歌手デビュー
華原朋美さんの昔の若い頃を語る上で欠かせないのが’‘小室哲哉”さんの存在。
この”小室哲哉”という男の存在が彼女の運命を大きく変えました。
小室哲哉に見初められる
アイドルとして『天使のU・B・U・G』に出演していた頃、小室哲哉に見初められた華原朋美さん。この番組の打ち上げで、
番組プロデューサーを介して小室哲哉さんが当時青山で経営していた店「TJM」に呼ばれ初対面を果たします。
「有名プロデューサーが遠峯のことを呼んでいるから一緒に行こうって。いっぱいアイドルがいたのに私だけ呼ばれて、マジ勝ったと思いました」
こう当時の心境を語る華原朋美さん。めちゃくちゃ正直ですよね(笑)
そして、その後2人は1週間後に交際を開始。
その後実際に一度会ったことがきっかけで、「何度かスタジオにお邪魔するようになって……」と馴れ初めを明かし、「大好きになっちゃいました」と語った。
こう語るように、告白などはなく自然な形で交際へと発展していったそうです。
歌声に惚れる
そして、2人は恋人という関係だけでは終わりません。
華原朋美さんが出会った翌日にレコーディングスタジオに呼ばれ、その歌声を聴いた小室哲哉さんは涙を流しながら「君を歌手として育てたい」と感動され、歌手デビューを決めます。
ただ、プロデューサーと付き合ったことがきっかけで歌手デビューを果たした華原朋美さんに対して「枕営業」だという声も多かったことも事実。
しかし、小室哲哉さんは『アーティストに手をつけたのではなく恋人に曲を書いてデビューさせた』と語っています。
21歳(1995年)デビューから1年足らずで新人賞を総なめ
1995年6月に小室哲哉さんが経営する『TK state』に移籍し、本名に近い『華原朋美』に改名。
この華原朋美の芸名は小室哲哉と同じイニシャル「T・K」になるよう小室哲哉さんが名付けました。
そしてここから華原朋美さんの快進撃が始まります。
『keep yourself alive』がヒット
シングル「keep yourself alive」で歌手デビュー。
オリコン・シングルチャート最高8位を記録し、いきなり37万枚のヒットとなります。
「I BELIEVE」が大ヒットしミリオンセラーに
続く「I BELIEVE」が驚異的なロングセラーを記録しオリコン最高4位を記録。
この曲で年末の新人賞を総なめにするほど、大ヒットしました。
そして、この「I BELIEVE」は翌年3月にはミリオンセラーを達成しデビューから半年足らずの新人としては異例の快挙となりました。
そのスタイルはあの平成の歌姫・浜崎あゆみさんなど、後のアーティストにも影響を与えたといわれるほどと言われています。
『フジテレビビジュアルクイーン・オブ・ザ・イヤー’95』に選出
この大ブレイクの1995年には『フジテレビビジュアルクイーン・オブ・ザ・イヤー’95』に選ばれ、アーティストとしてだけでなく、ビジュアル面でも多くのファンから支持されました。
まさに、一人の女性が男性との出会いによってスターダムを駆け上がっていくそのシンデレラストーリーに華原朋美さんは”平成のシンデレラ”とも呼ばれました。
22歳(1996年)一躍トップアーティストの仲間入り
「I’m proud」が再びミリオンセラーに
1996年の22歳の頃には華原朋美さんの代表曲とも言える「I’m proud」を発表。
「I’m proud」は「I BELIEVE」に次ぐ2回目のミリオンヒットを記録します。
この『I’m proud』のころは「絶頂の愛」を感じながら歌っていたそうで、公私ともに最高潮だったと後に華原朋美さんは語ります。
恋する女性は、美しいと申しますが小室哲哉と、恋愛真っ只中の華原朋美さんは本当に美しかったですよね。
しかし、小室哲哉さんは仕事になると彼氏から一点、非常に厳しいプロデューサーになったそうで華原朋美さんは当時の様子をこのように語ります。
「レコーディングの時は、愛とか恋というよりも(小室とは)先生と生徒という感じだったので、すごく嫌いでした」と語り、「厳しいことを、いつも言わないことを言うじゃないですか。その時だけ鬼に見えて、もう帰りたいとすごい思いました。いつも」と、苦悩していたそう。
しかし、その後に普通の優しい彼氏に戻る姿にさらに惚れてしまったのだとか。
『笑っていいとも』に出演
1996年には笑って良いともに出演。
この時の自然体な華原朋美さんのキャラクターも人気の一つでした。
24歳(1998年) CM『桃の天然水』
人気絶頂の1998年の24歳の時にCM『桃の天然水』に出演。
CMの中で発していた「ヒューヒュー」というセリフはめちゃくちゃ印象に残っていますよね。
「桃の天然水」といえば華原朋美さんの『代名詞』と言われるほどこのCMの影響は大きかったでしょう。
25歳(1999年)小室哲哉との破局〜休養
しかし、人気絶頂だった1999年1月30日に自宅で料理中にガス中毒で倒れ緊急入院した華原朋美さん。
同時に小室哲哉さんとの破局していたことが報じられます。
そして、それが原因でメンタルを病み、自殺未遂などと噂されましたが、これを機に精神的にダメージを受け、長期の休養に入ります。
小室哲哉さんとの破局による精神的ダメージは大きく、当時24歳ながら睡眠薬におぼれ薬物依存による別人のような姿は連日のようにマスコミで報じられ、世間に衝撃を与えたました。
これを境に徐々にアーティストとして失速し結果的に全盛期を終えることとなりました。
華原朋美さんはその知名度に比べて全盛期は1995年~1998年と実はあまり長くありません。
これは、「恋人がプロデューサー」というハイリスクハイリターンな立場であったことが強く影響していることでしょう。
それを物語るように、仕事と恋愛を同時に失った当時の心境をこう語る華原朋美さん。
「全てが終わってしまったので、どうやって生きていったらいいんだろう」
華原朋美さんのシンデレラストーリーは言ってみれば「小室哲哉」という恋人の全面バックアップがあってのもの。
この仕事のパートナーでもあり恋人という存在を一気に失った華原朋美さんのダメージは大きくここから長い低迷期に入っていくこととなります。
【画像】華原朋美の若い頃(昔)③大人の色気溢れる30代
26歳で復帰した華原朋美さん。その後も全盛期の勢いは無いまでも、紅白歌合戦に出演するなど変わらぬ活躍を見せます。
(2005年 – 2006年)30代で復調の兆し
30代に突入し、復調の兆しを見せる華原朋美さん。
32歳の頃には桃の天然水のイメージキャラクターにも8年ぶりに起用されます。
個人的には華原朋美さんの若い頃は20代よりも30代の方が断然大人の色気が出てて可愛いと思います。
ある程度歳を取った方がきれいに見える人っていますが華原朋美さんの顔ってまさにそのようなタイプの顔かと思います。
(2007年 – 2011年)30代でも悩まされた「薬物依存」
しかし、翌年の32歳の頃には交際相手のDV被害に遭い、再び薬物依存に陥ります。
仕事のキャンセルが続いたり精神的な不調が続いたりで、所属事務所のプロダクション尾木側は2007年に華原朋美さんとの契約を解除。
若い頃から乱用していた精神安定剤や睡眠導入剤などの薬をやめられず薬物依存により何度も閉鎖病棟へ入院するなど、更なる苦難の時期でもありました。
30代の華原朋美さんはトップアーティストというよりも”お騒がせ芸能人”のイメージが強かったことでしょうね。
華原朋美の若い頃(昔)はどれくらい凄かった?
しかし、華原朋美さんの登場で世間に与えた影響は少なくありません。
その”社会現象”とも言える事例をご紹介しましょう。
①“カハラー”が出現
当時、雑誌『JUNON』で“なりたい顔1位”にも選ばれるなど、同性を中心に絶大な支持をされていた華原朋美さん。
1990年代のファッションといえばアムラーが有名ですがギャル系のアムラーに対して、華原朋美さんをお手本にしたカハラーというコンサバ系が存在していました。
②吉野家の牛丼『つゆだく』が世間に認知
今では当たり前のように注文される吉野家の「つゆだく」
実は、これは華原朋美さんが音楽番組に出演した際、大好きな吉野家で牛丼をつゆだくで注文していると明かしたことで広まったと言われています。
「それを機に、若者の間でつゆだくがブームになったと聞いています。当社としてはもちろん、つゆの量もねぎの量もノーマルなものを自信を持っておすすめしていますが、お客様のニーズにお応えすることも大事だと思っていますので」(前出・広報担当者)
そう考えると当時の華原朋美さんの影響力は凄まじいものがありますね。
③「桃の天然水」ブームの火付け役に
元々は350ミリリットル (mL) 缶で発売し、後には500 mLのペットボトルでも発売したが、
ほとんど売れてなかった「桃の天然水」
しかし、1998年に華原朋美さんがCM起用されたことから僅か1年間で1,600万ケースを売り上げるなど爆発的にヒット。
CM内の「ヒューヒュー」という言葉が流行語になるほど、「桃の天然水」ブームが起こりました。
【画像】華原朋美の若い頃(昔)の現在(2022)が別人!?
こちらは2022年現在の華原朋美さん。
誰・・・・?ってぐらい別人。
かなり顔や体型が変わりましたね(汗)
色々苦労が伺えますが、2019年には所属事務所の『株式会社伝元』の社長兼専属マネージャーの大野友洋との結婚を発表結婚と妊娠を発表。
45歳で男の子を出産するなど、容姿は確かに変わってしまいましたが昔よりもかなり幸せな生活を送られているようですね!
【画像】華原朋美の若い頃(昔)のまとめ
「恋人」の存在がきっかけで一躍トップアーティストになり、「恋人」を失ったことで失速。
その後、復活や休養を繰り返すなどジェットコースターのような芸能人生を歩んできた華原朋美さん。
近年では再婚も果たし、生活面もかなり落ち着いているようでまた再ブレイクの兆しが見られますが、またファンに新たな一面を見せてもらいたいですね!
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