キムタクの奥さんでもあり、KokiさんやCocomiさんのお母さんでもある工藤静香さん。
今もなお芸能界では強い存在感を見せている彼女ですが、一体若い頃がどのような感じだったのか気になりますよね。
今回は、そんな工藤静香さんの昔の若い頃について詳しくご紹介したいと思います!
工藤静香の若い頃が超美人!
名前:工藤 静香(くどう しずか)
生年月日:1970年4月14日
星座:おひつじ座
血液型:B型
出身地:東京都西多摩郡羽村町(現在の羽村市)
学歴:東京都立板橋高等学校から、日本音楽高等学校編入・中退
職業:アイドル・女優・歌手
青森県出身の板前で「津軽」という小料理屋を経営していた父親と、美容師の母の元で生まれ、幼少期を青森で過ごし、小学生からは東京都羽村市で過ごしました。
こちらが工藤静香さんの全盛期の若い頃の昔の写真。
め、、、めちゃくちゃ美人ですよね!
20代でここまで色気を出せるアイドルって今の芸能界にいないのではないでしょうか?
今の工藤静香さんしか知らない人はこの美人すぎる容姿に驚いたことでしょうね。
ここからはさらに詳しく工藤静香さんの若い頃についてご紹介していきましょう!
工藤静香の若い頃①ミス・セブンティーン時代
『ミス・セブンティーンコンテスト』で特別賞を受賞
工藤静香さんが芸能界入りしたきっかけが1984年中学2年生の時。
女子向けファッション雑誌『Seventeen』が募集した『ミス・セブンティーンコンテスト』で特別賞を受賞したことにあります。
応募総数は歴代最大18万325人だそうで、ファイナリストには後に同じグループとなる国生さゆりさん、渡辺満里奈さん他、渡辺美里など…..
そうそうたる顔ぶれが並び、いかにそのグランプリとして注目されていたかが伺えます。
実は、小学生の時に劇団『東俳』に所属し、そこで学んだことこのオーディションで活かされたと後に語っています。
──歌手生活の中で印象に残っていること、転機だったとことはありますか?
その前に劇団に所属していたこともあったので、うまくいかない期間はそれなりに長くありました。そこで学んだことが力になったというか、勉強になったなと思います」
『セブンティーンクラブ』を結成
そして、この『ミス・セブンティーンコンテスト』で選ばれた工藤静香さん、柴田くに子さん、後にモデルに転身し、プロ野球選手の清原和博さんと結婚する木村亜希さん。
この三人で『セブンティーンクラブ』が結成されました。
1985年1月21日に、エスビー食品のスナック菓子「鈴木くん」「佐藤くん」のCMソング「ス・キ・ふたりとも!」でデビュー。
1985年8月25日にサンプラザ中野作詞のセカンドシングル「バージン・クライシス」を発売。
こちらがその時の動画です。
1番右が工藤静香さんですが、初々しすぎますね・・・笑
1年で『セブンティーンクラブ』を脱退
しかし、翌1985年8月の2枚のシングルを発表後に解散。実質1年足らずの活動で『セブンティーンクラブ』は解散。
木村亜希さんは1986年にアイドルグループB・C・Gのメンバーに、 柴田くに子さんは1990年に森丘祥子の芸名でソロ歌手となりました。
この解散の原因はシンプルに「売れなかったから」工藤静香さんは後にこう語っており、ビール瓶が入っていた木箱の上で歌うこと多かったそう。
理想のアイドルの世界と現実のアイドルの世界のギャップに耐えられなかったのでしょうね。
──セブンティーン・クラブが「失敗」と感じた理由は?
「とにかく売れなかったんです(笑)。営業にはよく行っていたけれど、一番多かったのは、ビール瓶が入っていた木箱の上で歌うこと。台風がきて突風が吹いているのに、デパートの屋上でのイベントが入っていたことも。観客は一人もいなかったので、社員さんたちが申し訳ないなという表情を浮かべながら、見に来てくれていました」
工藤静香の若い頃②おニャン子クラブ時代
『夕やけニャンニャン』のオーディションで合格
工藤静香さんは高校へ進学後の1986年5月、事務所の勧めで出演したフジテレビが放送する『夕やけニャンニャン』というバラエティ番組の『アイドルを探せ』というコーナーで見事合格。
この『アイドルを探せ』というコーナーは毎週5人出場して5日間を通してオーディションを実施し、合格すれば「おニャン子クラブ」という番組のアイドルグループの一員になれるというもの。
工藤静香さんは会員No.38番としておニャン子クラブのアイドルとなりました。
実は、この「おニャン子クラブ」は秋元康さんがプロデュースしたグループ。
総選挙をベースにランキングにしたり、おニャン子で得たノウハウを活用してAKB48を作ったとも言われており、言ってみればAKB48の前身となるグループですね。
そんな工藤静香さんですが、セブンティーン・クラブで売れなかった経験もあり、おニャン子クラブに入った中でもあまり自信がなかったそうです。
──おニャン子クラブに入った時はありましたよね。ヨシ! みたいな。
「なかったです。セブンティーン・クラブで失敗を経験しているので、自分がいる環境をとても客観的に見ていました。自分はあくまで大勢の中の一人。私がいなくても誰もわからないだろうって。すごく冷静でしたね」
「おバカキャラ」が売れる
セブンティーン・クラブですでにデビューし名前を知られていた工藤静香さん。
しかし、これと言った特徴のなかった工藤静香さんは正直メンバーの中で埋もれていた存在でした。
──忙しかったけど、自分が売れているという意識はなかったんですか。
「おニャン子の中でも本当に下っ端で、私より人気のある人はいっぱいいましたから、とにかくその人たちの邪魔になっちゃいけないと思っていました。当時は寮に住
んでいましたけど、売れている人はやっぱり違うなと日々感じていましたから」
そんな中で工藤静香さんがグループ内で存在感を見せたのは工藤静香さんの「キャラ」でした。
おニャン子クラブといえば、「学業優先」がルールでしたが当時はあまり学校に行っていなかったという工藤静香さん。
クイズ番組で「だってあたしバカなんだも〜ん」と発言したことで徐々にその「おバカキャラ」が大ウケ。
おバカキャラといえば里田まいさんやスザンヌさんなど、平成の時代にテレビを見ていた人ならヘキサゴンのメンバーを思い浮かべますが、実は工藤静香さんが「元祖おバカキャラ」だったんですね。
それだけでなく、「バイクが大好き」と公言することで、「ヤンキーキャラ」も定着し、グループ内でもますますその存在感を増していきました。
後ろ髪ひかれ隊
1987年5月には、生稲晃子さん、斉藤満喜子さんとともに、「おニャン子クラブ」の派生ユニット「うしろ髪ひかれ隊」としても活動を開始されています。
「うしろ髪ひかれ隊」は、もともと、生稲晃子さんのために、結成されたユニットで、デビュー曲「時の河を越えて」では、生稲晃子さんがセンターでした。
しかし、セカンドシングル「あなたを知りたい」以降は、
歌唱力と人気の上回る工藤静香さんが、センターを務めるようになっていきました。
そして、この「うしろ髪ひかれ隊」をきっかけに工藤静香さんはおニャン子クラブの中で人気、知名度をさらに上げていくことになります。
工藤静香の若い頃③ソロ歌手時代
ソロデビュー曲はオリコン1位
1987年8月31日の『夕やけニャンニャン』最終回放映日に発売となったシングル「禁断のテレパシー」でソロデビュー、そしてこのソロデビュー曲はオリコン1位を獲得。
翌年の1988年に発売した「MUGO・ん…色っぽい」はザ・トップテンという番組で初登場で1位を獲得し、同年の年間ランキングでも6位にも入りました。
おニャン子クラブの出身者でこの番組で1位をとったのはこの工藤静香さんだけで、見事にアイドルからトップアーティストへの仲間入りを果たしました。
そして、1989年には「恋一夜」「嵐の素顔」「黄砂に吹かれて」と50万枚以上の大ヒットを連発。
その年のシングル年間ランキング上位10曲の中に3曲全てが入るほどで特に「黄砂に吹かれて」は、オリコン6週連続1位の記録しました。
1980年代後半に最も活躍した女性アイドルの一人と言われるようになり、中山美穂さん、南野陽子さん、浅香唯さんらと共に女性アイドル四天王と呼ばれました。
アイドルからアーティストへの転身の最も成功例
「おニャン子パワーを借りずに実力だけでCDが売れたのは工藤静香ただ1人」
そう言われるほど工藤静香さんの活躍は爆発的で、むしろ工藤静香はおニャン子解散後の方が活躍する相当珍しいパターン。
もはや、アイドルよりもアーティストのイメージが強い工藤静香さんですが、令和に至るまでにここまでアーティストに転身できたアイドルっていないのではないでしょうか?
それぐらい工藤静香さんは「アイドル史上最大の成功例」そう言っても過言ではないでしょう。
工藤静香の若い頃の恋愛遍歴がスゴイ!
さて、工藤静香さんの若い頃といえば「恋多き女」としても知られていました。数々の浮名を流してきたのは皆大物ばかり。
ここからは、そんな工藤静香さんの恋愛遍歴についてご紹介しましょう。
諸星和己
まず一人目がジャニーズ史上最も人気だったアイドルグループと言われる『光GENJI』の一番人気のかーくんこと諸星和己さん。
工藤静香さんと同い年の諸星和己さんとの出会いは、10代半ばに遡ります。
諸星和己さんはまだジャニーズJr.だったんですが、そのころから工藤静香にベタ惚れ。
わざわざ彼女が通っていた高校まで行って声をかけたほど。そんな熱意に押され秘密裡で付き合い始めます。
工藤静香さんも、お忍びで観に行った光GENJIのファーストコンサートのビデオに映り込んでいたことがファンの間でも話題になっていました。
後に、諸星和己さんが出版した告白本の中で、
“18歳のときに結婚をしようと言った彼女がいた”
と匿名で綴っているのは、工藤静香さんのことではないかと言われています。
しかし、諸星和己さんも当時超がつくほどの人気アイドル。
諸星和己さんが浮気を繰り返し、その度に別れたり付き合ったりを繰り返していたそうですが、工藤静香さんの友人にまで手をつけたことで工藤静香さんがついに愛想を尽かしました。
的場浩司
2人目は元祖“ヤンキー”俳優で知られる的場浩司さん。
付き合っていたのは22歳の時からで、同棲をしていた的場浩司さんと工藤静香さんでしたが、このことがマスコミに知られてしまいます。
そこで、先手を打って会見を開き、”電撃結婚か?”と周囲も色めき立ちました。
しかし、“お似合いカップル”とも呼ばれたふたりの蜜月は、だがしかし、長くは続かない。この会見の3か月後、突然終わりを迎えました。
その原因は的場浩司さんの浮気ある共演者といい仲になってしまったようで、それを知った工藤静香さん怒って別れることになりました。
YOSHIKI
工藤静香さんの付き合ってきた人の中で最も大物と言われるのがこのXJAPANのYOSHIKIさんでしょう。
工藤静香さんとYOSHIKIさんとの交際が公になったのが1993年4月に起きたある事件がきっかけでした。
YOSHIKIさんがその頃住んでいたアメリカのロサンゼルスで飲酒運転で現行犯逮捕され、その時助手席に乗り合わせていたのが工藤静香さんだったようです。
的場浩司さんの時と同様、マスコミに知られるとなるや2ヶ月の長期休暇を取り、ロサンゼルスで堂々と同棲生活を送るようになりました。
そして、交際は順調でその年の4月工藤静香さんの誕生日にはYOSHIKIが婚約指輪を贈り、マスコミの前に姿を表す際にはいつも工藤静香さんの左手薬指にはそのリングが輝いていたといいます。
しかし、その後YOSHIKIさんの浮気が発覚。お相手はモデルのミスユニバースのカナダ代表のラナ・ブッシュバーガーさんという女性。夏頃にはその交際の雲行きも怪しくなり不仲説も報じられました。
しかし、その年の10月には週刊誌が破局報道を報じると工藤静香さんはマスコミ各社に「反論FAX」を送りました。
これには、「他の女は手を出すなよ」という意味で他の女性に対しての威嚇の意味も込められていたそう。
ただ、1996年1月、工藤静香さんは「彼とはもう会っていない」と突然の破局宣言で終わりを迎えました。
そんな恋多き工藤静香さんでしたが、2000年12月に木村拓哉さんと結婚。
今ではCocomiさんとKokiさんという2人の子宝にも恵まれ幸せな結婚生活を送っていますが、なんだかこういうのを見るとやはり若いうちはどんどん恋愛をした方が最後に幸せになれるかもしれませんね。
工藤静香の若い頃(昔)のまとめ
工藤静香さんといえばキムタク。
若い人であればそんなイメージを持つ人も多いかもしれませんが、若い頃を見ると正直キムタクよりスゴイのではないか?とまで思わせられるぐらいの実力者。
この事実をもっと多くの人に知ってもらいたいものですね!
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