【画像】松田聖子の若い頃が超可愛い!デビュー当時〜全盛期を総まとめ!

昭和後期を代表する歌姫といえば松田聖子さんを思い浮かべる人も多いことでしょう。

そんな松田聖子さんの若い頃は一体どのような感じだったのでしょうか?

今回は、そんな松田聖子さんの若い頃を時系列でご紹介したいと思います。

目次

松田聖子のプロフィール

本名:蒲池 法子 (かまち のりこ)

生年月日 1962年3月10日(2022年1月現在59歳)

出身地  福岡県 久留米市

身長       160 cm

血液型    A型

職業    歌手・アーティスト 、女優

1980年代に最も活躍したアイドルでありアーティスト。そう言われるほど当時の活躍は凄まじいものでした。

80年にデビューして以来、常に女性の新しい生き方を提示し続けるなど、世の女性のロールモデルとしても多くの影響を与えてきました。

【画像】松田聖子の若い頃(昔)が超可愛い!

こちらが松田聖子さんの若い頃の昔の写真です。

めちゃくちゃ可愛いですよね!

今の若い女性とはまた違う感じのこれぞ日本人女性というナチュラルさが良いですよね。

当時20代前半でこの雰囲気。昔の人って可愛いだけではなく大人びて見えますよね。

【画像】松田聖子の若い頃(昔)を時系列で紹介①デビュー前

1978年(16歳)『ミス・セブンティーンコンテスト』でスカウトの目に留まる

松田聖子さんの芸能界入りは1978年の17歳の高校2年生の時まで遡ります。

当時地元の久留米信愛女学院高校に通っていた松田聖子さん。CBSソニーと集英社『セブンティーン』が主催する『ミス・セブンティーンコンテスト』に出たことがそのきっかけ。

その時は桜田淳子の「気まぐれヴィーナス」を歌い優勝したましが、父親の大反対や学校でも「規則なので許されない。どうしても出たいなら退学するしかない」と言われ全国大会を辞退していました。

しかし、決勝の全国大会を視察してこれといった逸材を発見できなかった当時のCBSソニー制作部の若松宗雄プロデューサー。

若松宗雄さんがプロフィールも写真も無い音声だけの資料を100名分ほどチェックしていた時、九州地区大会で優勝した松田聖子さんの歌声に衝撃を受け「売れる声だ」と確信。

松田聖子さんすぐに連絡を取りスカウト。その後、若松宗雄さんが多くの事務所に売り出した中で数社目に訪れたサンミュージックが興味を持ちました。

1979年(17歳) 高校中退・転校

スカウトの若松宗雄さんの奔走によってサンミュージックが興味を持つことになりましたが、父親の信念は固く、ここから半年以上の間、父親を説得し続ける事になります。

そして、若松宗雄さんが何度も娘と連絡を取り合っている事に見兼ねた父親が、このまま否定し続けるのは娘にとって良くないのではないかとの考えに至ります

そして「3年で芽が出なければ帰ってくる」という約束でようやく承諾を得る事ができました。

1979年(17歳) サンミュージック入り

当時高校2年生だった松田聖子さんですが、「今動いた方が運気が良い気がする」そんな直感が働いた、と後に語っており、高校卒業を待たずを中退し上京。

その熱意と行動力に打たれたサンミュージックの相澤秀禎社長の元で下宿し、東京の堀越高等学校に転学し歌手を目指しました。

そして、本当にそんな松田聖子さんの行動が良い方向に働きます。

実はその当時、サンミュージックは女性歌手の中山圭子さんという売り出す新人の女性がいましたが、プロモーションがうまくいかずCMタイアップが直前に頓挫。

そんなタイミングが余計に松田聖子さんへの追い風となり、デビューへとつながりました。

もし、松田聖子さんが状況を高校を卒後業するまで待っていたらこのチャンスは掴めなかったことでしょう。

やはり、スターになる人というのはこういう運やタイミングにも恵まれ、チャンスをことごとくものにしていくイメージですが、松田聖子さんも例外ではなかったようですね。

【画像】松田聖子の若い頃(昔)を時系列で紹介②デビュー当時

1979年(18歳) ドラマ『おだいじに』女優デビュー

1979年10月松田聖子さんの芸能界デビューは意外にも女優デビューでした。

当時17歳の堀越学園3年生の時で同じ高校生役で出演。

また、ドラマ内でサンミュージックの先輩でもある太川陽介さんとのキスシーンがあり、それが松田聖子さんにとってファーストキスだったそう。

シーンを撮り終えてカットがかかった途端に聖子が布団を被って泣き出した為、相手役の太川陽介さんは複雑な心境になったといいます。

また、この時の役名である「松田聖子」がその後の歌手活動で名前を憶えてもらうため、そのまま芸名になりました。

1979年(18歳)「パンチ・ガール」

1980年1月、ニッポン放送の深夜のラジオ番組『ザ・パンチ・パンチ・パンチ』のパーソナリティ「パンチ・ガール」のオーディションに合格。7代目パンチガールとして登場しました。

『パンチガール』と呼ばれる女性パーソナリティたちが、時々ゲストを交え、時にはセクシーな雰囲気を醸し出しながらおしゃべりを展開するという形の番組。

内容は芸能、音楽の話題から文化、風俗、政治・社会問題まで採り上げるほど幅広く、それ以上に女性三人でのラジオ番組というのは画期的だったようで当時の若者に大人気のラジオ番組でした。

松田聖子さんは歌手デビュー予定のタレントという事で「歌わない歌手 デビュー」と紙面に取り上げられたこともあるそう。

歌手として売れることを夢見てどんな仕事にも挑戦する、松田聖子さんの貴重な駆け出しの頃が垣間見れます。

1980年4月1日、デビュー日当日となる日に日本テレビ『ズームイン!!朝!』に出演し、CBSソニー社員らの声援をバックに告知を行う松田聖子さん。

「松田聖子です。職業は歌手です」と日本国民にテレビ越しで挨拶をする松田聖子さん。まさに、”松田聖子伝説”が幕を開けた瞬間でもありますね。

1980年(19歳)「裸足の季節」で歌手デビュー

1980年4月、ついに松田聖子さんは「裸足の季節」で歌手デビューを果たします。

デビュー時のキャッチフレーズは「抱きしめたい! ミス・ソニー」

この「裸足の季節」は資生堂「エクボ」のCMでタイアップされることになりました。

というのも、もともと松田聖子さんはこのCMのガールオーディションにチャレンジしましたが、山田由紀子さんが選ばれ、松田聖子さんは残念ながら”エクボ”がないという理由でCMガールにはなれませんでした。

しかし、博報堂のプロデューサーの『ダメになるのはもったいないコだから』というプッシュがあり、CMソングに起用されることになります。

とはいえ、歌だけではまだまだ世間に浸透することはできず、このCMで流れている「裸足の季節」を歌っているのは出演している山田由紀子さんと勘違いされていたそう。

CMイベントのサイン会でも山田由紀子さんばかりに列が並び、松田聖子さんの前には並ばずに「あの娘は誰?」という目で見られ悔しい思いをしたこともあったそう。

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しかし、歌番組に出演しだすようになると、その容姿と声量のある魅力的な声が相まって瞬く間に人気が沸騰し’’松田聖子’’の名が一躍世に知られていくことになりました。

【画像】松田聖子の若い頃(昔)を時系列で紹介③全盛期

1980年(19歳)「青い珊瑚礁」で大ブレイク

そして、1980年8月にリリースした2枚目のシングル「青い珊瑚礁」で大ブレイク。

ここから松田聖子さんの快進撃が始まり、一躍スターへの階段を駆け上がります。

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この曲が松田聖子さんの大ブレイクのきっかけとなりました。『ザ・ベストテン』に第8位で初ランクし、9月には『ザ・ベストテン』の第1位を初めて獲得しました。

この時、スタジオから久留米に電話して「お母さ〜ん」と大泣きした場面は有名な話ですね。

その独特のキャンディボイスは、どんなに歌が上手い歌手が歌っても、松田聖子ほど、上手く歌えないと言われるほどその独特の歌声は多くの人を魅了しました。

ナチュラルに可愛い容姿、歌唱力、楽曲、全てが揃ったまさにスーパーアイドル。

1980年(19歳)〜1988年(27歳) 24曲連続でオリコン週間シングルチャート1位

松田聖子さんの快進撃は止まることを知らず、1980年の3枚目のシングル「風は秋色」から1988年の26枚目のシングル「旅立ちはフリージア」まで24曲連続でオリコン週間シングルチャート1位を獲得

1981年4月 夏の扉

1981年7月 白いパラソル

1982年1月 赤いスイートピー

数々のヒット曲を生み出し、まさに、アイドル女王は山口百恵から松田聖子へと引き継がれた瞬間でもありました。

1985年(22歳) 郷ひろみとの破局

また、私生活では松田聖子が18歳、郷ひろみが25歳の時に交際していました。

実は、郷ひろみさんの大ファン松田聖子さん。

コンサートが福岡で行われる度に観に行き、歌手に憧れるようになったのもこの郷ひろみさんがきっかけ。

『ミス・セブンティーンコンテスト』を受けたきっかけの一つも全国大会のゲスト審査員が憧れの郷ひろみさんだったからというほどの大ファンだったそう。

そんな憧れの人に会えたというそのノリで、交際にまで発展していったようです。

当時としては珍しく、とてもオープンな交際で二人は付き合った当初から、結婚を意識していたようです。

しかし、結婚したら家庭に入ってほしい郷ひろみさんと結婚しても芸能界を続けたい松田聖子の間で価値観の食い違いがあったのが原因の一つだったそうで円満別れだったそう。

その時の号泣会見は今も多くのファンも印象に残っており、「生まれ変わったら一緒になろうね」という名言もこの会見で生まれました。

1985年(23歳) 神田正輝と結婚そして出産

しかし、その後、すぐに映画で共演した俳優・神田正輝さんとの交際に発展。

号泣会見があった年の1985年6月に結婚。翌1986年10月に長女・沙也加さんを出産するなどあまりの急展開ぶりに世間を驚かせました。

1996年(34歳) 『あなたに逢いたくて』が大ヒット

1996年の34歳の時には松田聖子さんの歌で最も売れた曲『あなたに逢いたくて~missing you~』が110.1万の自身初のミリオンセラーを達成。

18歳のデビューから20年近く経ってもヒット曲を作り続けることができたという点においても松田聖子さんの凄さではないでしょうか。

松田聖子の若い頃(昔)はどれくらい凄かった?人気エピソードがヤバい!

オリコンシングル週間ランキング”24週連続一位”

松田聖子さんは1980年から1988年までの間にオリコンシングル週間ランキング「女性アーティスト部門、ソロアーティスト部門」で24作連続1位という記録を持っていました。

この記録は2010年に浜崎あゆみさんに抜かれるまで22年間破られることはなかった記録で、当時はTVで松田聖子さんを見ない日はないくらいテレビでは引っ張りだこでした。

CMに100本以上

 

バラエティーの出演も多く、志村けんさんとコンビを組んだシリーズコントもあったり、1980~90年代だけで、100本以上のCMにも起用されています。

おそらく、こんなアイドルは後にも先にもいないでしょう。

”聖子ちゃんカット”が社会現象になる

そして、松田聖子さんを語る上で欠かせないのがこの”聖子ちゃんカット”と呼ばれる髪型。

クラスメートの女子のほとんどが、聖子ちゃんカットになるほどで街中を歩いても女性はみんなこの髪型を真似するほど。確かにこの時代の映像の女性を見るとみんなこの髪型をしていますよね〜。

そして、その影響は一般人のみならず、その後に出たこの当時のアイドルも皆、松田聖子さんとそっくりな髪形でした。

世の女性のライフスタイルの「価値観」を大きく変える

松田聖子さんが世の中に影響を与えたのは音楽だけではありません。

松田聖子さんは結婚し出産しても続けた日本で初めてのアイドルでもあります。

当時の日本では”男性は働き、女性は早くに結婚し子供を産み家庭に入る”

そんな価値観であり、”働く女性”というというのがなかなか認められない状態でした。

しかし、そんな中でも女性でもやりたいことを貫くその姿は当時の日本人女性のライフスタイルの価値観に大きな影響を与え、1980年代以降の日本人女性のシンボル的存在となりました。

時代と格闘し、思い悩んでいる女性は松田聖子さんを理想の姿として見つめてきたことでしょう。

”自分のやりたいことをやり通す”そのライフスタイルは激しいバッシングにさらされることになりますが、しかし、その向かい風を全身で受け止めながら決して倒れなかった女性。それが「松田聖子」なのです。

松田聖子の若い頃(昔)のまとめ

昭和から平成にかけて一時代を築いた松田聖子さん。

その影響は並外れた歌唱力だけでなく、多くの日本の女性のロールモデルとしてもその生き方を示し、多くの影響を与えてきました。

この若い頃からの松田聖子さんの活躍はきっと今も多くのファンに焼き付いていることでしょうね。

これからのご活躍も期待しています!

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