世界も認めた日本を代表するアクション俳優の千葉真一さん。
大スターである千葉真一さんですが、若い人だとむしろ息子の真剣佑さんの印象の方が強く、千葉真一さんの俳優時代のその昔の姿を知らない人も多いことでしょう。
今回はそんなあなたに千葉真一さんの若い頃を詳しくご紹介したいと思います。
千葉真一のプロフィール
芸名:千葉真一(ちばしんいち)
本名:前田 禎穂(まえだ さだほ)
生年月日: 1939年1月22日(享年82歳)
血液型:O型
出身地:福岡県生まれ、千葉県君津市育ち
学歴:日本体育大学体育学部体育学科 中退
職業: 俳優・体操選手・空手家・歌手・芸能プロモーター・アクション監督・映画監督・映画プロデューサー・作詞家・作曲家・ナレーター・声優
元体操選手であり、その抜群の身体能力を生かしたアクション俳優。
その過激なアクションの数々は多くの人を魅了してきました。その演技に日本のファンのみならず海外のハリウッドスターからも尊敬されるほど。
晩年は映画監督としても活躍し、日本の映画界において数多くの貢献をしてきました。
【画像】千葉真一の若い頃(昔)が真剣佑似で超イケメン!
2枚目のそのルックス
こちらが千葉真一さんの若い頃の昔の写真です。
めちゃくちゃイケメンですよね!
今今風の日本人のイケメンとはまた違うタイプの彫りが深くて男らしい感じの『男前』っていう表現がぴったりですね!
プロマイド部門では4年連続1位となり、プロマイド枚数も134毎にのぼるほどそのルックスは人気でした。
若い頃(昔)は真剣佑に激似!
こちらが息子の真剣佑さんと比較。
やっぱりめっちゃ似てますね!
この真剣佑さんの綺麗なパッチリとした目は間違いなく父親の千葉真一さんから受け継いだのでしょうね。
真剣佑さんもよく見たらかなり男らしい感じがします。
真剣佑さんも髪型を変えたら今以上に千葉真一さんの若い頃にそっくりになることでしょう。
【画像】千葉真一の若い頃(昔)を時系列で紹介①デビュー前
日本体育大学体育学部体育学科に入学
1957年に日本体育大学体育学部体育学科へ進学し機械体操部に所属。同級生には東京オリンピックの跳馬金メダリストの山下治広さんがおり、ヘルシンキオリンピックの跳馬銀メダリスト・竹本正男に指導を受け、
千葉真一さん自身もオリンピック選手を目指していました。
「彼とは1年半くらいしか関わっていないですが、男性なのに柔らかくて、とても素敵な演技でした。当時、同期のみんなは彼が入学した時からオリンピック選手になれるって思っていました」
日体大時代の同期で1964年東京五輪の体操女子団体銅メダルを獲得した千葉吟子さんもこう語るほど、その実力は凄かったそう。
怪我からの大学中退
実家が貧乏な中、「働いて半分出すから、大学に行かしてくれ」と親を説得し大学に進学した千葉真一さん。
部活と同時に学費を賄うためにアルバイトを始めます。
そして、筋肉をつけるような仕事をすれば、器械体操にもいいだろうと、肉体労働の仕事を選びましたが、それが原因で坐骨神経症で腰を痛めて、1年間運動停止。
練習ができずにどんどん同期と差が開き、最終的にオリンピックを逃したこともあり大学を中退してしまいます。
千葉 でも、無知だったんですね。本来、器械体操の動きのためには、肉体労働はやっちゃいけないんです。1週間稽古をしないだけで、どんどん差が出てしまうオリンピック強化選手の中で、これは致命傷でした。泣いても泣ききれないんですけど、オリンピックは待ってはくれませんから。そこで思い切って中退して、芸能界に入ってしまったと。
しかし、この日体大から2013年3月10日に特別卒業認定証を授与され、正式な卒業生となっています。
いくら社会に出て成功しても、やはり心の奥底には「中退」という2文字が心残りだったのでしょうね。
東映のニューフェイスでオーディションに受かる
そして、ある時代々木の駅で「東映・第6期ニューフェイス募集」の貼り紙を見て。友達に背中を押され受けてみることに。当時、1万5、6000人の応募者があったそうです。そこから男6名、女14名の中に選ばれ、俳優の道へと進むことに。
【画像】千葉真一の若い頃②デビュー当時
【1960年(21歳)】テレビドラマ『新 七色仮面』
デビューは21歳の時の『新 七色仮面』
『月光仮面』をモチーフにした東映初の仮面ヒーローもの『七色仮面』の続編です。
【1960年(21歳)】テレビドラマ『アラーの使者』
その後も立て続けにヒーローもののドラマである『アラーの使者』に出演。
童顔で目の大きい親しみやすいルックスで少女雑誌の表紙も飾っていた千葉真一さんは、イケメン特撮ヒーロー俳優の『元祖』というべき存在でした。
【1961年(22歳)】映画『警視庁物語 不在証明(ありばい)』
映画初出演は『警視庁物語 不在証明(ありばい)』
翌年の1961年の22歳の頃。
中川(刑事)役で出演。
千葉真一さんはオープニング・クレジットの1枚目に出てきてます。期待の新人だったのでしょうね。
【1961年(22歳)】映画『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』
1961年の22歳の時に出演した映画『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』
千葉真一さん初主演作品で深作欣二発監督作品でもある記念すべき一作、
この作品をきっかけに多くの作品で組む2人が出会ったという意味でも記念すべき作品ともいえます。
見習い時期にスタントもこなしていた千葉真一さんは、殴る蹴るの格闘アクションだけでなく、跳んだり跳ねたり高い身体能力を見せつけます。
【1964年(25歳)】ドラマ『柔道一代 講道館の鬼 』
1964年の25歳に出演したドラマ『柔道一代 講道館の鬼 』
千葉真一さんといえば空手バカ一代も有名ですが、このドラマから格闘技のアクションもできることを強く印象付けました。
しかし、この年は東京オリンピックがあり、日本体育大学の友人はオリンピックで名を上げ、東映ニューフェイスの先輩でもある高倉健さんがスターになり、周りがどんどん出世していく中、映画をやめたいと漏らしていたそう。
千葉真一さんにとってこの頃は、周囲と自分のギャップに悩まされた伸び悩みでもあったようですね。
【1967年(28歳)】映画『ゴルゴ13 九竜の首』
1967年の28歳の時に出演した映画『ゴルゴ13 九竜の首』
天才スナイパー、ゴルゴ13ことデューク東郷を演じました。
格闘アクションや香港の2階建てバスの窓から屋根によじ登ったり、崖から宙づりになって狙撃したりするなど、アクロバティックな見せ場も加わり、千葉真一流ゴルゴが味わえる一作でもあります。
【画像】千葉真一の若い頃(昔)を時系列で紹介③大ブレイク期
【1968年〜1972年(29歳〜33歳)】テレビドラマ『キイハンター』
千葉真一さんの人気を圧倒的にし、大ブレイクしたきっかけでもあり最も代表作と言えるのが、この29歳の時に出演したテレビドラマ『キイハンター』
“二枚目俳優”の路線で売り出していった千葉真一さんでしたがアクションスターとしての地位を確立した作品でもあります。
危険極まりないアクションはスタントマンが担当するのが当たり前だった時代に、体操で鍛え抜いたその体を駆使し、アクロバティックな動きを全て自分でこなしました。
命綱なしで豪快に流れ落ちる20メートル滝の上での格闘はまさに命がけ。
20メートル下の滝つぼに落ちたら間違いなく命はないでしょう。
今でも語り継がれているのは、離陸する軽飛行機に車の運転席から乗り移るシーン。その危険度は千葉真一さん史上1位と言われています。
飛行機につかまったら左足が車のハンドルに引っ掛かって抜けないアクシデントもあり、まさに命をかけたドラマ撮影でした。
そんなオリンピックを目指した器械体操で培われたその運動神経が存分に活かされたスマートでダイナミックなアクションのカッコよさに、あのブルース・リーも大ファンになったという逸話まで残っています。
ブルース・リーはその活躍に深い興味を示して共演の申し入れをしましたが、突然の死により実現しませんでした。
そんな活躍もあり”千葉ちゃん”の愛称で一躍国民的アイドルとして親しまれるようになりました。
この『キイハンター』は瞬く間に視聴率は30パーセントを超え、1年の放送予定が5年に延ばされ、初期の頃は白黒でしたが途中からカラーで放送されています。
実はこのキイハンターの終了には千葉真一さんが大きく関わっています。
キイハンターのイメージ定着を懸念した千葉真一さんが共演者の丹波哲郎さんに辞任を申し入れたところ、このドラマは千葉真一さんなしでは成り立たない。
そんなことを言われ、それならドラマごとやめてしまおうということになったそうです。
しかし、このキイハンターはこれまでの刑事ドラマになかった規格外のスケールとセンスのアクションで視聴者を釘付けにしました。
【1970年(31歳)】ジャパンアクションクラブ (JAC) を設立
千葉真一さんは『キイハンター』の成功を受けて、自分以外にもアクションをこなせる俳優を育成することが必要と考え1970年にアクション俳優を育成する「ジャパン・アクション・クラブ(JAC)」を設立。
このJACからは堤真一、真田広之、伊原剛志ら主演級のスターを育ててきました。
千葉真一さんが多くの人から愛される所以は、こういう後進の育成にも情熱を注いできたことにもあり、大きな功績ともいえるでしょう。
【1973年(34歳)】映画『仁義なき戦い 広島死闘篇』
34歳の時に深作監督の大ヒットシリーズ『仁義なき戦い』の第2作『仁義なき戦い 広島死闘篇』に出演。
明るいキャラクターとシャープな動きで人気を集めてきた『キイハンター』の千葉真一のイメージをすべて捨てる覚悟で、ダーティーな大友勝利役に挑みました。
結果的に大友は『仁義なき戦い』シリーズの中でも人気の高い、名物キャラクターになり、俳優・千葉真一の新しいイメージを作ることにも成功しました。
【1974年(35歳)】映画『激突!殺人拳』
1974年の35歳の時に出演した映画『激突!殺人拳』
「殺人拳」シリーズが千葉真一さんの更なるターニングポイントの一つでもあります。
実際に極真会館で空手を学び、多彩な格闘シーンや、実際の牛を使った迫真の牛殺し、クマとの死闘など、アクション俳優の域を超えた格闘家さながらの演技を見せます。
千葉真一さんの格闘技アクションの作品は『燃えよドラゴン』(1973年)によるカンフー(空手)ブームも手伝い大ヒット。それを機に『地獄拳』シリーズ、『けんか空手』シリーズなど….
千葉真一さん主演の空手&格闘技映画が次々に製作され、一つの時代を築くことになりました。
【1979年(40歳)】戦国自衛隊
1979年には芸能生活20周年記念作品である映画『戦国自衛隊』、主演と日本映画初のアクション監督を兼務。
戦車やヘリコプターなどから繰り出される現代兵器の爆炎の中を人馬が走り回り、戦国武者(真田広之)がヘリから命綱なしで飛び降るなど、、、
仮に今どんだけ予算を注ぎ込んでもこの生のアクションは真似出来ないでしょう。
この頃から作り手としても興味を示し、映画監督としての道を進んでいくことになり、日本映画界にアクションの新風を吹き込むことに意欲を燃やしていきました。
【画像】千葉真一の若い頃のまとめ
千葉真一さんがアクション俳優として数々の残した作品は今でも多くの人に愛されていることでしょう。
そして、そんな千葉真一さんから教えを受けたアクション俳優が活躍することで、千葉真一さんの魂は生き続けることでしょうね。
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